江戸時代初期の、宮崎安貞著「農業全書」には、田畑を肥やすものとして「苗肥」(緑肥)、草肥(堆肥)、「灰肥」(草木灰)、泥肥(池や川などの底に溜まった土)の4種類を挙げています。
この時代、主要な肥料として売買されたものに、「下肥(人屎尿)」「植物油粕」と「魚肥」が数えられています。これらが、金銭がかかる肥料という意味で「金肥」と呼ばれていました。
主な作物が「米」であったために、田植えの準備期間3月~5月が高く、夏場には極端に安くなったようです。また、驚くことに人屎尿にランクがあり、大奥、大名屋敷のものが「きんばん」、街角の辻便所のものが「辻肥」、町民の長屋便所のものが「たれこみ」、牢獄や留置所の便所のものが「お屋敷」と呼ばれ、価格が異なったようです。・・・屎尿も売れたので、売買に関するいざこざも多く、証文や裁定記録に文書として残されているものが散見します。・・・
肥料成分が分析されていなかった江戸時代でも、栄養価の高い食べ物を食べている人の「屎尿」が高く設定されていたのです。高エネルギー食品、脂肪、蛋白質は、土壌にも作物にも、高エネルギーを与えるのです。
但し、そのままではエネルギーの移動はできません。そこには、必ず微生物が関与しています。腐敗や醗酵、微生物分解にも一定のルールあります。
好気性醗酵は嫌気性醗酵の約20倍の速度あり、また、動物性有機物は植物性有機物よりも、はるかに早く分解します。その分、「肥料当たり」もします。
江戸時代は、山も川も丘も人の手入れが行き届いており、里山の風景には「屎尿の溜池」があり、屎尿は原則として、「臭いが消えるまで1年間」寝かせました。
下肥は水田の一反につき肥桶20荷、肥舟50荷、平均して1町歩の水田には4艘の肥舟が必要であったようです。かなり高額な肥料であったようです。
しかし、これよりも高価だったのが、「植物油粕」と「干し鰯」「干し鰊」ですが、こちらは商品価値の高い、綿や紅花、藍や煙草や茶などに使われました。