陸軍中野学校の兵器開発資料は、敗戦とともにアメリカ軍に持ち去られ、北朝鮮(朝鮮北部)での開発資料はソビエト軍に持ち去られました。この中には、原爆実験が完成された情報、試作弾が開発されたことの記載もあったはずです。

陸軍中野学校(※中野憲一会)の存在自体も、敗戦後10年以上を経過してから徐々に公開されて来ました。

世の中に知られていなかったのです。

大先輩の木村平八郎氏もそこの卒業生で、仲間にはルパング島での生存者の小野田寛郎元少尉などがいます。

 

台湾に旅行すると各地に「日本式温泉」があります。北投温泉、関子領温泉、四重渓温泉、などが有名です。しかし、温質は、北投温泉と新北投温泉の上にある陽明山(やみんさん)温泉・・・戦前までは「草山(そうさん)」と言っていた・・・が日本の「玉川温泉」に近く、トロッとした緑色をした上質のものです。金山断層のリン銅ウラン鉱を伺わせるものです。

北投温泉博物館には、日本人の閲覧が禁止されている「北投石調査文」という台湾総督府民営部殖産局の報告書があります。調査は1909年(明治42年)から始まり、大正4年9月7日に発行されています。内容は、ウラン鉱の開発資料です。

 

一方、日本統治下の朝鮮半島では良質のウラン鉱が開発されました。もっとも、1896年にはアメリカ人グループが平安北道雲山郡で、ロシア人グループが咸鏡北道セビョル郡で金山開発を始めていました。朝鮮総督府が朝鮮鉱業法を施行して皇室直営にしたのが1906年で、25箇所が皇室管理となりました。この中に、ウラン鉱山も含まれていました。

現在使われている北朝鮮核関連施設、坑道などの構内図、配置図などは日本の管理下にあったのです。朝鮮総督府の1923年(大正12年)の「朝鮮鉱床調査報告」には既にウラン鉱「もずな石」(モナザイト)に関する調査報告がなされています。既に、モナザイトの採掘は日本窒素鉱業開発(後の日本窒素肥料)が行っていました。

ウラン鉱産地は (1)忠清南道天安郡笠場面良垈里 (2)平安南道平原郡石岩面西岩嚴里 (3)咸鏡北道富寒郡観海面山津洞 ウラン抗7箇所。

 

戦時中は、国内でも日本各地で学徒がモザナイトの採掘に徴用されました。「三朝温泉」「ろうそく温泉」「益富温泉」「玉川温泉」などの近くは、モナザイトの産地でもあります。

戦前の「核開発」は、理化学研究所「仁科教室」で行われ、仁科芳雄博士が中心となり、島田実験場では、湯川秀樹博士、朝永振一郎博士なども名を連ねていました。敗戦後の世界の理論物理学を牽引したノーベル賞受賞者達です。