大相撲が国技ともてはやされるようになったのは、つい最近の事です。
江戸時代に町方奉行により「質素倹約令」が出されて、「見世物小屋」も寺社方奉行の敷地内へと逃げ込んだのが始まりです。ですから、最初に「国技館」が建立されたのも両国の日向院境内の敷地内でした。江戸の大火で死者を数多く出して、新たに逃げる橋として両国橋が建立され、それらの死者を弔う目的で橋の袂に建てられた日向院境内です。
もっとも、途切れ途切れで「相舞」「素舞」「相撲」は、継承されて来ています。
古事記などで散見される記事では、「相撲節会(すまふせちえ)」です。聖武天皇が七夕祭りの余興として勅令を発して、全国から力自慢を集めています。(734年7月7日) それ以前の相撲としては、野見宿禰(のみすくね)と当麻蹴速(とうまのけはや)の戦いが有名です。戦勝者の野見宿禰(のみすくね)は、現在の国技館近くに神社として祀られています。
平安時代の「相撲節会」は、「農耕儀礼」でした。作物の吉凶を占ったのです。そのうち、天下泰平、子孫繁栄、五穀豊穣、常時大漁を祈願するようになりました。これが奉納相撲です。
戦国時代に入ると、「素手で武勇を競う」闘技場として再登場し、源頼朝、織田信長などが上覧相撲を愛したようです。
江戸時代に栄枯盛衰の憂き目を見ましたが、徳川幕府の将軍が御上覧相撲を開始したことで、日本全国大名の代理戦争のような繁盛ぶりで、盛況を極めたのですが「質素倹約令」以後は、神事として、ほそぼそと継続したのです。
この時、神事である証に「四本の柱は、青龍、白虎、朱雀、玄武(黒)」に塗られ、今では四隅の「房(ふさ)」として残っています。そして、四股を踏み、聖地を踏みしめ、柏手を打って、力水で自らの身を清めて神前相撲を執り行うのです。横綱は注連縄(しめなわ)ですよ。あくまでも神事に則っているのです。
明治時代は継続の大危機でした。ご贔屓の大名が無くなったのですからね。ここで、幸いだったのは明治天皇(大村寅次郎)が相撲好きであったことです。天(皇)覧相撲が再開したのです。