江戸時代の江戸町は、初期(1603~1650年)で人口約120万人、約100年後の享保 (1716~1736年)期には、約300万人に達していたと推定されています。

勿論、江戸は徳川幕府の中心都市であり、諸国は独立生産に近い独立行政区でしたが、その文化は広く日本諸国へ伝達されていました。

 

経済的には「自由競争時代」であったわけですが、基盤となるものが「米」でした

銀や金や銅などは、密かに開発されていて、産地も「塩山」や「丹」という文字で隠されていました。

士農工商という区分でも,工商は下に置かれ、地方の特産品も、農業分野からのスタートが多かったように思います。それだけに、農産物、特に「米」の増産に力がそそがれていました。新田開発から治水、新作物、新品種、土壌改良、肥料、農具開発などには研究者も多かったのです。

 

江戸時代の各藩の古文書を読み解くと、各藩とも藩収を得る為、生活を豊かにする為に、薬草園などで研究を凝らしていたことが分かります。

 

古文書館でなく、一般的に入手できる書籍では、日本農業全書14の「広益国産考」(著;飯沼二郎)、「日本農書全集」(農文協)などがあります。

なかでも、「農業全書」(宮崎安貞)、「農具便利論」(大蔵永常)、「綿圃要務」「甘藷大成」「琉藺百万」「油菜録」「精油録」(大蔵永常)などが参考になります。
江戸時代の三大農学者と呼ばれた、宮崎安貞(1623~1697年)は、筑前国、現在の広島の出身であり、大蔵永常(1768~1861年)は豊後国、現在の大分県の出身であり、佐藤信淵(さとうのぶひろ)(1769~1850年)は、出羽国、現在の秋田県の生まれであり、「農政本論」「経済要録」「混同秘策」「垂統秘録」などを著し、後年から徳島藩、盛岡藩、江戸へと移り住んでいます。

農業が、江戸だけでなく諸藩でも尊重されていたことが分かります。

 

江戸初期の宮崎安貞の著わした「農業全書」には、「土地を肥やすのは肥料」「肥料には苗肥、草肥、灰肥、泥肥がある」「草肥と下肥を切り返し乾燥させ元肥とする」「黒土、赤土に油粕」「砂地に干し鰯」「湿土には綿実滓」などと書かれています。

この中で、「魚肥」「植物油粕」と「下肥(人糞)」に注目したいと思います。