気づくことを「悟る(さとる)」とも言います。隠されていた事項に気付くのです。

迷いから脱して、真理を会得して、特別な境地に達することを「悟る」と考えている人もいますが、どうもそうでもないような気がします。
単に、非日常の中の「非凡」に気付くことだけなのではないでしょうか。
同様に、「諭す(さとす)」というのは、先に「気付いた人」が「気付いていない人」に、事の理非を咀嚼して教えることだけのことではないでしょうか。

小説や演劇は、非日常を演ずることです。現実にありえないことも、小説や演劇の中では演じられるのです。
しかし、親の突然の死とか、恋人の突然の死とか、子供の突然の死などのように、突然に訪れる「非日常」により、「非凡」に気付かされることもあります。

私たちは、日々の生活を「当たり前の事」のように過ごしています。一度、失うことにより、この日常が如何に「非日常」であることか、気付かされるのです。・・・その意味では、戦時下の日々は、常に非日常的でありました。・・・
今は、「平和ボケ」です。何気なく生きてしまっているのです。

止まりそうなくらい「ゆっくり」と息をすることを数時間続けてみましょう。
すると、「止まった時間」が見えて来ます。身の回りの「空気の流れ」に気付かされます。「止観」法です。あらゆる万物の生命の動きを感ぜられます。
ドアを0.01mmずつ開けてみよう。微妙な光の動きが感ぜられます。今迄とは違った「非日常」が見えて来ます。しかし、「日常のひとコマ」にすぎないのです。同様なことが、様々な場面で起こっていることに気付きます。

相手の目を「凝視」すること3分、これを続けると「目に見えない心」が見えて来ます。皮膚を凝視することを続けると、肉眼で見えない「気の流れ」が見えて来ます。すると「経絡」が見えて来ます。同じことを植物に注ぐと、自然の霊気が膚に感ぜられます。肉体を通して、肉体を離れた目が開けるのです。

日常の生活は、見過ごしがちです。しかし、非日常的なものの連続なのです。