日本では、自然と人とが一体となって生活環境を整えて来ました。
その結果、人々の住む自然環境は「人里」といって、野生動物の住む環境と一線を画して来ました。
「古池や蛙飛込む池の音」という松尾芭蕉の有名な俳句は、「人里」の気配を感ずる「古池」なのであります。要するに、「人の生活臭」が感じられる一句なのであります。人々の生活圏内の「山も川も海も」人の手による「手入れ」が行届き、為されて来たのです。・・・松茸などもそうです。落ち葉を払いのけて、木材腐朽菌などの侵入から菌根菌を人為的に守って来たのです。・・・山が荒れ放題では松茸が出て来ないのです。川や近海の漁業権なども、生活圏を守るという側面があります。
昔は「溜池」というものがありました。人糞や尿を溜めて置く自然の「肥溜め」です。表面の水が臭いも無く、澄んで来たら肥料として使いました。
田圃の底土は、粘土だと思われている方も多いかと存じます。ところが、この土は微生物の塊でもあるのです。「肥溜め」の臭いを抑えるのに「田圃の底土」を少し投げ込めば、たちどころに悪臭が収まりました。鶏糞の臭い消しにも使われました。
伊豆半島には「クサヤ」という食品があります。新鮮な魚類(トビウオなど)を「クサヤ」という液に漬けて置く保存食です。大変、臭いので「クサヤ」と呼ばれて来たのです。この「クサヤの液」は、微生物の塊でもあるのです。微生物は体外消化といって、消化液を分泌して自分の周りのものを栄養物として利用する性質があります。微生物が密集して来ると、この消化酵素が溢れて来るのです。微生物同志は、この硝化酵素をお互いに使って勢力化競争をしています。・・・これを人間が利用したものが「抗生物質」と呼ばれています。青かびの消化酵素がペニシリンとして知られています。・・・このようなことから、「クサヤの液」は、「抗生物質の塊」とも考えられるのです。地元の漁師は、「傷口にクサヤの液」を、風邪かと思ったら「クサヤ液でのうがいを」、食あたりの下痢かと思ったら、「クサヤ液を薄めて」飲んで来ました。
西洋文化が入ってきて、「自然との対立思想」が主流になり、田畑が荒廃し、山々の手入れも無くなり、人糞や鶏糞などの自然循環への道は断たれて来ています。
ウイルスも細菌も「病原菌」としての認識が高く、ウィルスや細菌が人の生活圏を守ってきたことが忘れ去られようとしています。
ウイルスや細菌には、実際には「善玉菌」も「悪玉菌」もありません。
人間が勝手に、
人間に都合が良いものを「善玉」、
人間に都合の悪いものを「悪玉」、と呼んでいるだけのことです。