いつの時代にあっても、治世者の考えることは同じようなものです。不穏な住民の移動を禁止してしまえば、政情不安もかなり抑制されます。

 

現在の中華人民共和国でも、「都市籍」というものがあり、地方からの住民の移動が禁じられています。移動しても良いのですが、もし地方出身者が都市に住んだ場合、「都市籍」が無いと、病院にかかるのにも、子供を学校に就学させるのにも、5倍もお金がかかる仕組みになっています。

地方分権や「州」や「藩」などの分権を認めてしまうと、中央政府との間に軋轢が生じます。それぞれが、「税率」や「軍隊」を勝手に持ち始めると、それなりの規制をしておかなければなりません。現在の中国の「省」、アメリカの「州」とは、似たところがあります。違うことは、中国では、5軍区(習近平体制までは7軍区であった)は、別の軍隊であることです。「国軍」は無く、「人民解放軍」というのは、全人口の5 % の「共産党員」の雇用兵に近いということです。問題なのは、「言葉も違い」「民族も違い」「文化も違う」ということです。公用語に北京語があるだけなのです。

現在の日本の若者は知らない人が多いのですが、昭和20年(1945年)までは、台湾も韓国も北朝鮮も日本が統治していました。日本の国内であったわけです。日本には、琉球王朝の人々や、北海道にはアイヌ民の人々も多く住んでいました。(現在でも住んでいます。) 当然、それらの地域の人々は、日本語は共通語として話せるけど、独自の民族の言葉も持っていたのです。

 

加奈という名前は台湾にも多い

 

朝ドラで放映されている西郷隆盛が流罪となり流された奄美大島の現地妻の名前は、「愛加奈」です。その母の名前も「龍佐恵志 枝加奈」でした。この「加奈」は、女性に対する愛称です。・・・・愛加奈の本名は姓が「龍佐恵志」で、名前が「於戸間金」でした。「於」は尊称、「戸間」が名前、「金」は女性につける「加奈」の古い呼称でした。・・・・

ところで、この「加奈」という名前は、台湾にも多いのです。漢字の読み方も、沖縄と台湾では似ています。もともとは、同一文化圏であったことが窺われます。

日本人にとっては残念なことに、台湾では、戦中・戦後と反日政治が続き、ことごとく日本語読みの地名は改変されてしまいました。日本人にとっては、難読です。しかし、沖縄の人々にとっては、とても読みやすい名前になっているのです。

 

上三川は「かみのかわ」と読む

 

この地名は、もともとが「誤読」なので、決して正しく読めません。読めるのは地元の人だけです。「上之川」を達筆な人が草書体で書くと「上三川」のように見えます。ですから、誤読したものが正式書体になってしまっているのです。この地域には、「上神主」を「かみこうぬし」、「川中子」を「かわなご」、「上文挟」を「かみふばさみ」という難読地名もあります。

「入り鉄砲、出女」を警戒した江戸幕府の行政の名残であります。「よそ者」が、地名を尋ねた途端に警戒され、注意を注がれる仕組みになっていたのです。

これらの地名は、栃木県河内郡にあります。

 

沢水加は「さばか」と読む

 

静岡県の菊川市にある地名ですが、ほとんどの人が読めません。語源も明瞭になっていません。牧之原台地の小高い所にあります。近くに第二次世界大戦のアメリカ軍本土爆撃に備えての迎撃部隊「海軍航空隊特殊兵学校」の跡地があります。

この「沢水加」という文字に似ているのが「洒水加」です。「洒水加持」は「しゃすいかじ」と読みます。密教から発生した日本古来の神教の加持祈祷の方法です。皆様の多くが知っています。紙垂が付いている榊(さかき)でお祓いをする時に、清浄な水を振りかける所作です。これを加持と言います。仏や菩薩が不可思議な力によって人々を守ることを乞う、祈りの儀式の一つです。この所作に続いて、密教では「勧請」、祈祷では「降神招請」を行います。神々をお迎えするのです。

ところで、「沢水加」の近くでは、土器などが多数掘り出されています。ここは、小高い丘陵の高い地であり、古墳と呼ばれていますが「古い墳墓」が見出されているのです。「古い墓」は、「祖先の墓」、「祖墓」と呼ばれ、丘の中場の「古墓」、平地にある「新墓」と区別され、「そばか」と呼ばれていたことが分かります。

丘陵の頂上にある「沢」と「洒水」、「祖墓」が結びつき、「そばか」が「さばか」に転じたように思えます。

「沢水加」を「さばか」と読むことは、難がありますが、地元にしか通じない難読地名の一つかと思えます。ここを下れば、「大井川の関所」があった場所です。

江戸時代には、「入り鉄砲、出女」の詮議が厳しかった場所です。関所破りも、難読地名は難所であったのです。見破られて、打ち首、獄門に出会ったことでしょう。